- 青森県スキーの父
- 油川中尉講習会に参加1912年(明治45年)(01月05日)高田連隊が策定した「スキー術教育規定」による講習会が高田市で開催された。甲種三週間36名。乙種十日間100名が参加第8弘前師団傘下の歩兵52連隊油川貞策中尉他4名が甲種三週間の講習に参加した


- 2月6日講習から帰った油川貞策は弘前の兵舎で指導したりしていたが朝鮮守備隊に派遣された。大正3年4月に弘前に帰隊し翌年1月から弘前市郊外の笹森山(現在の鷹揚郷病院付近)で工藤浅吉に一本杖のアルペインスキーの指導をしたとありここからスキー指導者としての活躍が始まった。
- 油川貞策は軍の山岳踏破の実地訓練で選んだのは出身地である大鰐であった。彼と彼に係わった大鰐の実業家、学生、青年たちは次第にスキーに傾倒し、駅から近く、温泉がありスロープのスケールも持っている・・・。わが故郷大鰐へスキー場を造るという壮大な夢の実現を描いたに違いない。村おこし、町づくりはいつの時代でも新しい素材を契機に、それに情熱を傾ける人たちによって始まる。スキーという新しい素材を油川貞策がはこんできた。

- 油川貞策
- 1885年(明治18年)9月2日に大鰐町に生まれる。明治38年弘前中学校(現弘前高等学校)を卒業。陸軍士官学校(第19期生)を卒業して弘前第52連隊に配属、昭和6年退役になるまでほとんど弘前第52連隊、31連隊に勤務し青森県スキーの講師となり各地の中学校の配属将校としても主として教練やスキー指導したことで青森県スキーの父と称されることとなった
- 尾崎知事と中川教諭の着任
- 大正9年(1920)、青森女子師範学校附属小学校主事に、樺太豊原中学校から中川竹次郎が赴任してきた。中川は同好者を集めてスキーの特質を宣伝し、講習会を企画してスキーの普及に努めた。この頃には、高田市において全国スキー大会を開いたりしてその情報が各地に伝わり、スキー熱も次第に高まっていた。初期の頃生徒であったり、学生であった人達が社会の中で指導的立場を得てきた時代でもあった。 更に、本県のスキー界発展にとって好都合だったことは、大正10年(1921年9月、北海道から尾崎勇次郎が青森県知事に就任したことである。尾崎知事は北海道でスキーを学び、スキーの熱烈な信奉者でもあった。彼は県庁職員に自ら指導するほどで、部長、課長クラスを連れて新城のスロープに練習に出向いた。このため、本県のスキーは著しく成長の度を早めた(『青森県スポーツ史』)。
- 原子保雄 明治26年(1893)12月2日生まれ
- 青森青年師範卒業、大鰐、石川小学校訓導、大鰐郵便局長、大鰐町議、大鰐スキークラブ会長を歴任
- 大正10年( 大正10年(1921、27歳で大鰐郵便局長に就任したその年、原子保雄は青年団副団長も兼ねていたが、青年団長の大鰐尋常高等小学校長小笠原保雄、教員仲間だった32歳の長利良造(大鰐信用組合長)等と共に、大鰐、蔵館温泉の若者たちの風紀の乱れに頭を悩ましていた。
- というのは、明治28年(1895)に鉄道が開通し、それまで馬に荷物や米味噌を付けて運んで湯治に来ていたのが、汽車で来れるようになって湯治客がどっと増えた。温泉町は大繁盛となったが、冬は若者たちには何もやることがなかった。
- 当時は「若者団」という組織があり若者頭の命令は絶対で、「今日博打をやる」と言えば、みんな集まって花札賭博をしていた。
- この「若者団」を壊すために、大正5年(1916)11月皇太子殿下立太子犬を記念して、当時の大鰐尋常小学校長箕輪田銀郎校長が計画を立て、教員だった原子保雄、長利良造等が代表となり「青年団」と改めることにした。
- 初代の団長を原子保雄が引き受け、「16歳から21歳」までを入団資格とした。21歳以上の者が入るとやっぱり酒を飲み、賭博をしてしまうからだった。 しかし、実際には、若者が博打や酒を止めてまで没頭できるような「冬の遊び」は無かった。青年団幹部としては農閑期の青年団活動には頭を悩ましていた。 「どんな手段を、何を」と苦慮していたこの年、大正10年12月の講習会は、この2人を強く刺激した。感激して帰った2人は、仲間を誘い、大鰐のスロープを順に描き、普段何気無く見ていた阿闇藤平狐森の草山に行ってみたに違いない。これが年表の「全くの試みで、知る人はわずか」になっているのではなかろうか。
- スキーで滑るという視点で見ると、阿闇藤山はどんなコースも取れる雄大で変化に富んだ地形であり、ここをスキー場にして、青年たちを滑らせ、温泉客にも滑らせることで人を呼ぶ・・・青少年の運動には最適、かつ町の繁栄にも無くてはならないものという思いが脳裏にこびりついてしまった。
- 翌11年1月初めから、スキーについての記事がしばしば登場するようになった。これは、尾崎知事、中川主事が画策し、小林不浪人を中心とした東夷日報社のスキー普及のキャンペーンでもあり、ようやく、全国的にスキーヘの関心が高まってきた時期とも重なっていたようである。

大鰐温泉スキー場物語 つづく

